平安時代と言いますと、まず頭に浮かぶ
のは、「優雅」「優美」という言葉でしょうね。
現代の我々が平安時代を知るには、書物
やネットに頼るわけですが、十二単など
という風雅な衣装を着こなした女性は、正に優雅優美そのものです。
ところが、実際の平安時代の生活は、優
雅や風雅とはとても言えない状態だった
ようですよ。
十二単という衣装にしても、あんなに着
込んでいたら、トイレに行く時にはどう
するの?とか、下世話な想像をしてしまいます。
あのぞろりとした着物を10枚も着たり脱
いだりするのには、さぞ大変だろうと思
いますね。
というわけで今回は、十二単に的を絞り、
その構造や着方、なぜあんな不便そうな
ものを着るのかなどを、調べてみました!
Contents
十二単の構造とその着方は?
十二単というと、やはり12枚の重ね着な
のでしょうか?
それとも12枚というのは掛け値で、実際
はもっと少なかったのでしょうか?
これは、実際に12枚説と掛け値説が拮抗
しているようですね。
十二単とはどんな構造?
十二単はこのようなものを着ますが、
内側(肌側)からの順です。
- 肌着の小袖
- 濃き単(ひとえ)
- 重ね袿(五衣)の一枚目
- 重ね袿(五衣)の二枚目
- 重ね袿(五衣)の三枚目
- 重ね袿(五衣)の四枚目
- 重ね袿(五衣)の五枚目
- 打衣(うちぎぬ)
- 表着(うわぎ)
- 唐衣(からぎぬ)
というわけで、肌着もいれると計10枚になります。
やはり少ないじゃないかと言われそうで
すが、上の他に下半身には、張袴(はり
ばかま)と裳(も)を着用します。
ですので、それも入れると
丁度12枚になります。
ややこじつけ気味ですが、やはり
十二単は12枚ということになりそうですよ。
十二単の着方
十二単とは俗称で、唐衣裳(からぎぬも)
或いは女房装束(にょうぼうしょうぞく)
が正式名のようですね。
女房装束とは、高位の女官が朝廷に出仕
する時の衣装です。
袴(はかま)に単(ひとえ)、重袿(か
さねうちき)に裳と唐衣(からぎぬ)を
着けた姿を唐衣裳と言い、これが正装です。
この姿で、桧扇を持ち頭を結い上げて宝
冠を乗せれば、より正式な女房衣装とな
るのです。
初めて女房装束が十二単と書かれたのは、
源平盛衰記においてです。
入水しようとする建礼門院の衣装につい
て書かれたところで、十二単と表現され
たことが最初だそうです。
元々の十二単とは、袿を幾枚も着重ねた
もので、どちらかというと略装になります。
十二単の着付けの順序
1 肌着の小袖(こそで)に緋の張袴
(はりばかま)をつけ、単(ひとえ)を着ます
2 重ね袿の1枚目を着ます(白色)
3 重ね袿(五衣)の2枚目を着ます(薄青)
4 重ね袿(五衣)の3枚目を着ます(青)
5 重ね袿(五衣)の4枚目を着ます(山吹)
6 重ね袿(五衣)の5枚目を着ます(濃い山吹)
7 袿の上に濃き蘇芳の打衣(うちぎぬ)を着ます
8 濃き色の表着(うわぎ)を着ます
9 最後に唐衣(からぎぬ)を着て、裳(も)をつけます
動画でありますので紹介しておきますね!
単は、上に着る袿(うちき)や表着(う
わぎ)よりも一回りと大きく作られています。
単には裏地はなく、色は
紅、青、白、紫、紅梅、蘇芳
などが用いられていたようです。
また、表着は装束の色目が美しく見える
ように、衣裳は上になる程小さく作られ
ているのです
なんでこんなに何枚も重ね着をしたのか
は、単に伝承によるとか、冬の京都は寒い
からとか、色々説があります。
どちらにせよ、これだけ何枚も着込んだ
ら、さぞ脱ぎ着が大変だろうとは、すぐ
想像できますよね。
脱ぎ着だけでなく、十二単一式の
重さは20キロ近くあったそうです。
20キロの荷物を一日中背負ったままで過
ごすのですから、女官も大変だったでしょうね。
そのあたりは次項で説明しましょう。
なぜ十二単を着るのか、平安の暮らしとは?
ではなぜ、女官達は十二単を着るのでしょうか?
それは朝廷に出仕する時のしきたりだからです。
十二単は一応正装であり、それを着ない
で略装で出仕することは、非常に礼に外
れた行いとされてしまいます。
場合によっては、天皇の目に触れること
もあるので、正装は必須ということですね。
会社に出社する時に、ふんどし一つ
(女性ならばトップレス)で出社す
る人はいません。
社長の目にとまれば、「キミ、明日から
出社しなくていいよ」となることは、間
違いありません。
それと同じことです。
また、平安朝当時の気温は、平均して現
代より1.2度低かったので、冬の防寒対
策にもなりますね。
それに、十二単にも各種あったようです。
前項で書いた構造は、最も一般的なもの
ですが、それ以外にももっと枚数の多い
もの、あるいは少ないものと様々だったようですよ。
平安の暮らしとは?
平安時代というと、優雅という感じが強いですね。
でも、本当に平安時代の暮らしは優雅だったのでしょうか?
尚、ここでは貴族の暮らしに限定します。
当時の貴族達の生活は、
源氏物語や枕草子などで伺うことができます。
しかし、庶民の暮らしぶりについては、
それらの書籍にもほとんど触れられていません。
そのようなわけで、平安時代の生活につ
いては、どうしても貴族社会が中心に
なってしまいます。
では、当時の貴族とはどういう人々だったのでしょうか?
貴族とは、貴い人々と書きます。
つまり尊ばれ敬われる階級の人々ですね。
この貴族が出現したのは、
701年に制定された大宝律令から
とされていまです。
五位までの官位のものたちを「貴」とい
う言葉で呼んだことから「貴族」という
概念が誕生したと考えられているのです。
それでは、彼らの実際の暮らしぶりは、
どのようなものなのでしょうか?
平安時代の貴族というのは、
現代では政治家や公務員に相当します。
お役所である宮中に出勤し、国政や
さまざまな事務を行っていました。
その当時は、
午前7時頃に出勤をし、昼前には終業
となっていたようです。
自宅に戻るとお昼を食べて、のんびりと
和歌を詠んだり、蹴鞠を蹴ったりします。
そして夕飯を食べたら寝てしまうという、
まことにもって優雅な生活ぶりだったようです。
もっとも、終業後の和歌や蹴鞠は、当時
の貴族にとっては重要な教養であり、そ
れを磨くのも仕事の一つということだったのでしょうね。
トイレはどうしてたの?
前項で書いたように、平安時代の貴族達
は毎日が半ドンという、まことに優雅な
生活をおくっておりました。
しかし、当時は有給休暇などというもの
はありませんし、日曜日もありません。
したがつて、ある意味では年中無休
に近い状態だってわけです。
これはこれで、結構大変な生活ですね。
しかも女性は十二単などという、重たく
てかさばる衣装を着ているのです。
あんな衣装を着ていて、トイレはどうし
ていたのでしょうか?
これは要するにおまるを使っていた
ようですよ。
部屋に樋箱(しのはこ・携帯トイレ)を
持ちこんで、そこで用をたしていました。
この樋箱は長方形の箱型で、上部の蓋を
取ってそれにまたいで用を足します。
もちろん、一々十二単を脱いだりせず、
そのまんままたいでしていた
のですね。
樋箱の下部には引き出し状の箱が収めら
れており、そこに砂や灰が敷いてあり、
用を足した後に下級女官がこの引き出しを抜いて後片付けをしました。
その用便の臭いを消すために、部屋に香
を焚きこめ、着物に香の臭いを移らせた
りもしていました。
平安時代というと、香とは切っても切れ
ない縁があります。
用便の問題だけではなく、当時は
風呂に入るという習慣はなかった
のです。
その理由は、身体が入る程の大量の湯を
湧かすのは、当時としては大変だったか
らということでしょう。
そのかわり、蒸し風呂が使われていました。
貴族の屋敷にあった蒸気風呂は、「風呂殿」
と呼ばれました。
まずはお湯を沸かし、専用の密室内に湯気
を入れ、蒸気が満ちてから入浴したそうです。
入浴中は尻の下に布を敷きますが、この布が
「風呂敷」の語源となったのです。
この蒸し風呂は有名な「枕草子」にも登場し、
平安時代の貴族には広く使われていたようですね。
そのようなわけで、風呂で垢を落とすと
いう習慣はなく、そのため貴族といえど
も臭気芬々という有様でした。
そのため、匂いを打ち消そうと香を焚く
のが流行ったのです。
これも香が広く愛用された理由です。
結び
十二単とは、平安時代の正装で、正しくは女房装束といいます。
女房装束とは、高位の女官が朝廷に出仕
する時の衣装です。
着る枚数は必ずしも12枚とは限らず、
もっと多いことも少ないこともあったようですね。
その重さはなんと20キロ近くにもなるそうで、
これを着て動くのはさぞ大変だったろうと思います。
なぜこんな重くて着るのが面倒なものを
着ていたかといいますと、十二単を着な
いで朝廷に出仕するのは礼に外れるからです。
トイレは部屋の中でおまるにしていたの
で、平安朝の部屋は臭かったそうですよ。